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27.陸稲禁忌の広沢地区

《第27話・広沢町全域》
陸稲禁忌の広沢地区
賀茂様を傷つけた陸稲
今は風にそよぐ緑の葉

 むかしむかしのことでした。賀茂の神様が久しぶりに広沢郷の巡検に出られました。お供も従えずにのんびりと……というお忍びの巡検は、賀茂様にとっては、平素のお疲れをお取りになられるのに好適なひとときでもありました。

 しかし、こういう素晴らしい気分でおられるときには、得てして思いもよらない出来事が持ち上がるものです。賀茂様だとて例外ではありませんでした。

 賀茂の神様が巡検に出られた日は、秋たけなわのころでした。広沢郷のそこここに陸稲(おかぼ)は、どれも十分に実った重そうな稲穂の先を地面に向けてたれ下げていました。

「今年の陸稲は、どれもことの外、よう実っておるのう。この分なら今年も豊作は間違いなしじゃ。」

 賀茂様が、こう思いながら、実りぐあいを確かめようと稲穂をお手にとり、お顔をお近づけになられたときでした。突如、サーッと思いもよらない一陣の風が吹いて、辺りの陸稲の葉を大きくそよがせました。事件が、このときに起きたのです。何と、風にそよいだ陸稲の一枚の葉の先が、陸稲にお顔を近付けておられた賀茂様のお目を突いてしまったのです。

 賀茂様は、瞬間、強い痛みを感じられ、急いで館にお戻りになられました。そして、冷水でお目のお手当てをされました。しかし、時の経過とともに、お目の痛みとハレは増すばかり………幸い、痛みもハレも明け方までには遠のきましたが、その夜は、とうとう一睡もできない有様でした。

 この事件があってから後は、毎年のように豊作を誇っていた広沢郷の陸稲づくりに、なんと不作、凶作の年が続くようになってしまったのです。その上、不作、凶作にめげずに農家が陸稲をつくり続けると、その農家に病人や怪我人が出るなど、悪いことが重なるようになってしまったのです。そのため、広沢郷から年ごとに少しずつ少しずつ陸稲の姿が消えて行きました。

「賀茂様は、お目を痛められたことで、陸稲がお嫌いになられてしまわれたのでは…。」

「氏神様がお嫌いになられている陸稲を、氏子のワシらがつくるわけにはいかんよな。」

 お百姓さんたちは、こうささやき合って、陸稲づくりから遠ざかったばかりか、ついには、陸稲づくりを『広沢郷の禁忌』にまで広げてしまったのです。

◇    ◇    ◇

 歳月が流れて、時代は昭和の二十年代を迎えました。そのころの日本は、第二次世界大戦に敗れ、国民は大変な生活苦にあえいでいました。ことに食糧難は深刻でした。広沢町の人たちとて同様でした。

 そのために、広沢町の農家の何軒かが、

「畑を遊ばせておくよりは、少しでも収穫を……」

と、長い間の禁を破って、こっそりと陸稲づくりを始めました。もちろん、お百姓さんたちは陸稲づくりに先立って、賀茂の神様のお許しを乞う精一杯のお祭りを行っていました。しかし、長い長い地域の「禁忌」を破って陸稲づくりを始めたのですから、耕作者たちは、

「どんな嫌なできごとが起きることか。」

「怪我人、病人が出なけりゃいいが。」

などと、次ぎから次へと心配ばかりが浮かんで来て、一日とて気の休まるときはありませんでした。

 でも、幸いなことに、このお百姓さんたちに不幸な事件は、一つとして訪れませんでした。そればかりか、久しぶりの陸稲づくりに対して、秋には「豊作」という幸運までも運んできてくれたのです。

 禁を破ってまでも陸稲づくりに取り組んだ人たちの結果はいかにと、心配して見詰めていた地域のお百姓さんたちも、このことを目のあたりにして、

「賀茂様は、やっぱりワシらの氏神様だった。ワシらの苦しみを見て、陸稲づくりに目をつぶってくださったのだ。」

と、賀茂の神様への感謝の念と、崇敬の念を新たにしたのでした。そして、それを契機にしてポツリポツリと、陸稲づくりを手がける農家が出てきました。

 今では、ここ旧広沢郷に、陸稲のさわやかな緑の葉が風にそよいでつくりだす、素晴らしいウエーブが、再びあちこちで見られるようになりました。その美しい緑のウエーブが、長い長い「陸稲づくり禁忌」を「広沢郷のむかしむかしの物語」に風化させようとしているのかも知れません。

《広沢町(ひろさわちょう)》

口碑によると、往古は大野郷に属し、和銅年間(奈良時代・708〜714)に上広沢、中広沢、下広沢の三村に別れている。それが明治九年(1878)に一つになって山田郡広沢村と称した。

 その後、昭和十二年四月一日に桐生市に合併して広沢町となり、現在に至っている。総面積は25.75平方・で、行政区は12、13区。賀茂神社、茶臼山、大雄院、彦部屋敷(国重文)など、見るべき史跡・文化財が多い。

◆道案内◆略

 

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