<第7話・梅田四丁目>
軍場(いくさば)
敗戦の悲惨目前に
追討取りやめた由良勢
刀折れ矢尽きた桐生勢の足取りは、目的のないままに、ただただ梅田の里を奥へ奥へと力なく歩み続けるばかりでした。
天正元年(一五七三)三月十二日、太田金山・由良氏との、たった一日の合戦で名家・桐生家がまさかの敗戦。
そして落人の汚名を着せられただけに、将兵は足取りばかりか心の奥底までもが、いやというほど重くなっていました。
そんな心身ともに傷ついた将兵たちの背に、追い討ちをかけるかのように届けられる知らせは、どれもすべて悲報ばかり−−−。
「お城も、はや猛火に包まれたそうな。」
「奥方様は、自刃なされたとか・・・・」
「ご家老さまも、小俣川で討ち死になされたらしい。」
「それにしても、殿はご無事で落ち延びられたかのう。」
自分たちの怪我の重さも省みずに将兵たちは、しきりに主君の安否を気遣い続けました。その将兵たちが、やっとの思いで見つけ出した休息の場は、梅田の里もかなり深まり、桐生川のせせらぎが聞こえる、山肌の間近に迫った小高い丘の上でした。
しばしの安らぎの場と時を得た将兵たちは、崩れ落ちるように両のひざを折りました。そして、わずかな休息の間に、今後の身の振り方について互いに意見の交換を重ねました。意見は、様々に出されました。が、集約すると次の三点に大別されました。
「このようになった今は、討ち死にをした家中の者のあとを追って、ともに果てよう。」
が、その一つの主張でした。
それに、
「なんとしても落ちのびて、桐生家再興の機会をねらおう。」
「山にこもり、亡き奥方様や家中の者の霊を弔おう。」
の二つでした。
それらの意見は一つにまとめられることなく、どれもが尊重されました。そして、それぞれの意志に従って行動をすることを各自が確認しあいました。
しばしの別れを惜しんだ後、あたりに陽の影の黒い面積が広くなり始めたころ、主家再興と死者の供養を志す者たちは、自刃を決めた者たちに決別をし、涙しながら思い思いの方角に姿を消していきました。
休息の地を最後の地と定めた将兵たちは、別れゆく同志の姿が木陰に消えるのを見届けると、見事に刺しちがえて、亡き家中の者の後を追ったのでした。
由良(太田金山)勢の追手がここまで寄せてきたのは、桐生氏将兵がちりぢりに離散したあと、自刃して息絶えたあとでした。目の前の惨状を見た由良の軍勢は、山の中を落ちていく桐生氏将兵の姿を見ながらも、そこから奥への追討をしようとはしませんでした。
桐生氏と由良氏・・・・ 敗者と勝者という立場のちがいこそあれ、戦いの苦しさは存分に味わい合ってきている武士同士でした。
ですから、桐生氏将兵の心魂が手に取るように伝わって、あえて追おうとはしなかったのかもしれません。
近年、桐生地方に修験道が栄え、昭和初期まで根本山、鳴神山、三峯山といった山々の尾根を渡り歩く修験者の姿が数多く見られたといいます。
その修験者の中には、先祖の遺志を継いで、遠い昔、主家のために生命を散らしていった桐生氏将兵の霊を弔う人々も、きっと混じっていたことでしょう。
その修験者の姿を見ることができたであろう『軍場(いくさば・合戦場とも書くことがある。)』という土地は、桐生氏将兵が最後の休息の地に選び、そして最後の軍議を開いた小高い丘に、地元民が将兵の霊追悼の心を込めて贈った地名です。
軍場・・・・・そこは「桐生城落城悲話」が色濃く残されている土地なのです。
<軍場(いくさば)>
軍場の位置は、桐生川ダム・梅田湖突堤の前面西側台地一帯である。ダム工事の影響で、かなり様相が変わってしまったが、かつては猫の額のような狭いところだったが、狭いながらも美しい畑が見られ、季節によってソバの花やトウモロコシ、麦などが見られた。
昭和の初め、その畑を開墾する際には相当数の矢じりが出たといわれる。
◆交通◆
KHCバス停「落合橋」下車。下車した場所から少し戻り、梅田隧道を通り抜けた眼下一帯が「軍場」の地である。