高園寺(梅田町三丁目)のお小僧・玄道さんは、ある日のこと、和尚さんに本堂へ呼び付けられました。そして、本堂に入るなり和尚さんに頭から大きなカミナリを落とされました。玄道さんは、まったく思いもかけない和尚さんからの大目玉に、しばしア然となってしまいました。
「仏にお仕えする身でありながら、女犯の戒めを破るとは、なにごとぞ。」
顔を真っ赤にしての和尚さんの大声の叱責は、それはそれは、すさまじいものでした。
玄道さんには、たしかに前々から、とても好いた女性がおりました。でも、玄道さんは、仏の道での女犯の大罪は十分に承知していました。だから、他の人にさとられないようにと、これまでの逢瀬(おうせ・人目を忍んで会うこと)には、とくに細心の注意を払って来ていたのです。ですから、
「和尚さんには、絶対に知られるはずはない。」
ろ、玄道さんは自信をもっていました。それが当の和尚さんに早々と知られてしまったのです。玄道さんにとって、その悔しさ、ショックは和尚さんの厳しい叱責に増して大きいものがありました。
「これは、間違いなくだれかが告げ口をしたのに違いない。そいつはだれなんだ。きっと捜し出して、この恨みを晴らさずにはおくものか。」
と、玄道さんの心は怒り心頭に達してしまいました。
玄道さんは、執念から何日も何日も、その告げ人を探してまわりました。そして、やっとの思いで寺小屋の小島師匠が何日か前に、和尚さんとの雑談中に玄道さんの「女犯」を告げていた……ということを探り当てました。
「にっくきは小島師匠。このままにしてはおくものか。」
玄道さんは何やら意を決すると、ソッと寺を抜け出しました。そして近くの通称・西裏山の大岩に上ると、やおら僧衣を脱ぎ捨て、それに火を付けました。玄道さんは、燃え上がる炎を見詰めながら、小島師匠への恨みつらみの数々を並べたて、僧衣を焼き尽くすと、どこへともなく姿を消してしまいました。
僧籍にある者が僧衣を焼くという行為は、一般の人の自殺と同じだと言います。それを敢えてしたお小僧・玄道さん……。その恨みの大きさが知れます。
玄道さんが僧衣を焼き捨てた大岩には、その後里人によって「玄道岩」という名がつけられました。
玄道さんが姿を隠してから後、不思議なことに、小島師匠の家で時折り嫌なできごとが持ち上がるようになりました。
里人の中には、
「玄道さんのたたりでは?」
と、言う人もありましたが、真偽のほどは、まったく予測の域をでませんでした。
◇ ◇ ◇
話題の主・玄道さんは、鍋足(なべあし・梅田町三丁目)の出身で、土地の旧家・二渡家のご先祖でした。今も二渡家の東側山腹に玄道さんの苔むした墓があり、土地の人たちの間では、「玄道じいさんの墓。」と呼ばれています。
玄道さんの好いた女性も、なんと、これまた地元の旧家・細渕家のご先祖で、生家は二渡家とは眼と鼻の先にありました。玄道さんの幼なじみだったのかも知れません。それだけに世が世であれば、玄道さんが僧籍にあろうとも、お二人は周囲からの大変な祝福を一身に浴びて、幸せな生涯を送っていたことに違いありません。そうすれば、この民話もまた違った形で伝承されていたことでしょうに。玄道さんの生きた時代が悪かった……そう言うより外はありません。悲恋を伝える民話と言えましょう。
《高園寺(こうえんじ)》
梅田町三丁目にある曹洞宗の寺で、寺伝によると応永年間(一三九四〜一四二七)、松堂長源和尚によって開創されている。現在は桐生山鳳仙寺末。
宇治川の先陣争いで知られる「池月」の産を伝える「池月の池」が現存する。
《鍋足(なべあし)》
カッコウソウで知られる鳴神山登山口より、更に奥まった所にある静かな集落で、平家落人伝説もささやかれる。地元の旧家である二渡家・森下家・細渕家の三家の位置が、ちょうど鍋底の足の位置のように存在することから付けられた地名だとも言われている。
◆交通◆KHCバス停「局前」下車。そこから100メートル余上った川島商店のところで左折。さらに200メートルほど歩むと、右側山腹の木立の中に高園寺が望まれる。なお、西裏山の玄道岩は現存していない。
鍋足へ行くには、高園寺に寄らずに直進し、高橋を渡って高沢(こうざわ)の道に出る。その道の6キロメートル余り奥が集落である。そこへ至るまでの交通機関はない。